何もない所から32

このまま行けたら。

初めて5人揃ってDMCの代表曲を披露したのは福島市のクラブネオだった。

この日のイベントは仙台や群馬のラッパーも多数出演していたイベントだった。

 

ライブ後、たくさんの方から声をかけられ絶賛された。

その中には後に群馬での初ライブのオファーをくれる我次郎MICさんや仙台のYASさんのクルーメンバーだった男(マン)君もいた。

自分達はこの曲が完成した時点で『これなら行ける』と確信していた。

 

ここから活動の幅が広がっていった。

 

いわき市駅前の居酒屋でみんなで今後の事を語り合った。

 

自分の中で前からあった目指すべきは東京という思いがさらに強くなり、何よりDMCなら東京でも通用する自信があった。

 

ちょうどその頃、鬼さんが東京に上京し、綱渡りスクランブルと合流し、渋谷Ruido k-2でイベントを始めたという知らせを受けた。

 

自分はこのまま仙台に居ていいのかという言いようのない焦りがあった。

もっと色々なものを見てみたかった。

『まだ23才』だったけれど、福島の田舎では『もう23才』と見られている様な気がした。

ここから思い切った挑戦なんて無謀だと。

周りの機嫌を伺いながら何か糸口を探していた。

せっかく最高のクルーに最高の楽曲があるのだから。

 

2006年の春先、郡山DOOZ『綱渡りスクランブル』

鬼さんは不在だったがずっと見たかった綱渡りスクランブルが地元郡山でイベントを開くことを知り、見に行ってみた。

 

そこで初めて見たKEI君とBLOM君のライブは遥か先を行く様な衝撃があった。

 

ここまでそこそこの数のライブを経験し、たくさんのラッパーを観て来たけれど、それでも感じた事のないものだった。


綱渡りスクランブルはイベント終盤のKURIKI君のDJタイムに毎回オープンマイクが始まる。

だいたい口火を切るのはKEI君だ。

そこからフリースタイルが始まる。

それがとてもかっこよかった。


KEI君

「あれ?今日は狐火来てるんだろ?出て来いよ」

 

心臓が破裂するかと思った。

僕は一生懸命に何かをラップしたと思うけれど、覚えてはいない。

 

DOOZから外に出ると空が明るくなり始めていた。

 


つづく