何もない所から8

最初のMCネームは先輩のアパートで考えた。

イッキさん

「とは言っても、お前らに出会って一週間足らずで何もわからん。そんな時は苗字や名前をもじって付けるのがマスト。」

そう言うとイッキさんは僕にwest-wax、友達にノースカントというMCネームを付けてくれた。
うれしくて、うれしくて。
メールアドレスを早速MCネームにしてみたりした。

 

イッキさんは出身の地元でもラップグループを組んでいたが、僕らとのラップグループも掛け持ちしてくれた。

もう一度挑戦してみよう。
誰よりも長くここにいよう。
ダサいと言われた事でさえいつか全てが思い出になり笑い話になるまでずっとここでラップを続けようと思った。

秋の心地よい風が吹き抜けるアパートの一室で風になびくカーテンとリリック帳。
バンダナを巻いたマイク。
壁に耳をあて隣人が在宅か確認して、リリックなんてほとんどないからマイクチェックだけで一日が終わったりする。
床に転がるJINROやカルアミルクの空き瓶、その全てが昨日の事の様に思い出される。

この時期に出会った方々は自分と同じく何もないけれど何かになろうとしていた。
僕は大学へ進学する意味をぼんやりとしか理解していなかったが、ここでラップに出会えただけで意味があったと思えた。

それはその先の人生の結果論でもあるけれど、心の底からやりたい事に出会いそれを続けて行けるということはとても幸せなことだと思う。
たまにその事を忘れてしまう時にこの頃の事を思い出す。


ある日、イッキさんが僕らをレコードショップに連れて行ってくれた。
僕にとっては初めてのレコードショップだ。
入り口の横にベンチがあり、お洒落な方々が煙草を吸いながら雑談していた。
僕は聞き耳を立てながら中へ、嗅いだことないお香の香りがどこか遠くまで来た様な気分にさせてくれた。

 

イッキさん

「こんちわ!久しぶりっす!後輩連れて来ました!」

 

店員さんに気軽に挨拶するイッキさんに一瞬憧れたが店員さんは「ごめん。君だれ?」と言っていた。

その言葉を遮る様にイッキさんは僕らの方を振り返りながら「今日もこの店は重低音すげぇなおい!」と言った。
ちなみに、その時店内では綺麗なジャズピアノが流れていた。

それから何度もみんなでレコードショップへ足を運んだ。
ラップを乗せるためにお金を出し合ってインストを買いに行ったり、あーでもないこーでもないで3人で朝方までリリックを考え、イッキさんのバイト先のコーヒーショップでココアで飲みながらミーティングをしたり、何もない所にしかない何かを必死に掴もうとしていた。

そんな毎日は今でも戻りたいと思うほど楽しかった。

何も始まらなそうな曇り空の朝方がうっすらと色付き始めていた。